2020年5月9日土曜日

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長年にわたってホームページ担当者が不在のため、多くのページが更新されず、大変申し訳ございません。
教会のニュースと予定に関しましては、随時新しい情報を掲載しておりますので、そちらの方をご覧ください。

なお、ウィーン日本語カトリック教会の新しい連絡先は下記の通りです。
住所: Pulverturmgasse 11, 1090 Wien, Austria/Europe
メールアドレス: wjkg@hotmail.co.jp
電話:+43 66488680598 (携帯)
司牧担当者:青木孝子

メール、あるいはお電話にてお気軽にご連絡ください。

2009年10月1日木曜日

ロレット巡礼

27.Juni 2009

待ちに待った巡礼の日。このところWienは不安定な天気が続いていたので、せっかくの巡礼旅行が雨天になってしまわないかどうかを心配していましたが、皆の祈りが通じたのか巡礼の途中は雨に遭わずに旅を楽しむ事ができました。

今回はBurgenlandはLorettaと言う街にあるBasilika Maria Kircheへの巡礼。我々は現地集合班と電車班に分かれて行き、10時半からのミサに与る。電車班は、Wien発の電車が遅れるも、バスの接続時間にはかろうじて間に合い、無事に教会へとたどり着くことができました。車窓からの風景は、見慣れた都会のWienの町並みから、どんどんワイン用のブドウ畑や羊が草を食んでいる牧草地帯へと変わって行き、いつも目にしている町並みとはまた異なるオーストリアの魅力をも味わうことができました。


この日のミサは、私達の他にも巡礼を目的にこの教会にやって来た人達がいて、私たちは彼等と共にミサに与りました。
ミサの中では「日本語のゲマインデも今日は巡礼にいらっしゃっています」と神父様が声を掛けてくださり、また巡礼ミサの最後には、私達のゲマインデの為にも他の巡礼団と共に祝福を受けました。ミサの終わりに清められた聖水で祝福を受けると、聖霊の息吹を受けたようなすがすがしい気持ちになり、私は「あぁ、巡礼にやってきて良かった」と思いました。
ミサでは、他の巡礼団と共に聖歌の役割等を分担。特に巡礼団の聖歌のハーモニーはとても美しく、その響きの美しさに会衆の全員の祈りが一致できた様にも思います。日本語ゲマインデからは小さなバイオリニスト達が、聖体拝領やミサ後の祈りの時にAve verum Corpus等を一生懸命に奏でてくれました。言語を分かれ、また文化を分かつ人々が、共に1つになれることを
実感できたミサでもあったと思います。ミサの最後、司祭の退堂前に、司祭が祭壇前に置かれている黒いマリア像の前に膝まづき、聖母マリアに取次ぎの祈りを捧げられたことは、ここの教会の聖像の歴史、かつてポーランド王ソビエスキーが決戦を前にして祈りを捧げた…という経緯を顧みても、時代を越えても同じ「祈り」の時を共有できる思いを持つことができ、とても印象的な瞬間でした。

ミサ後は、我々日本語ゲマインデの巡礼団は、共に主の祈りと天使祝詞を日本語で唱え、特に「神さまといつもいっしょ」という『平和を祈ろう』聖歌集からの一曲を共に歌うことで、ゲマインデが共に一致し、皆で巡礼のミサに与れたことに対して神さまに感謝いたしました。この曲は、ゲマインデの子供たちも歌うことができる曲だったので、大人から子供まで全員で歌うことができて、本当に良かったと思います。

祈りの後は、木彫りで表現された十字架の道行きの回廊を見て回り、「聖家族の家」と言われる聖堂を見学。(印象的だったのは、ここの教会オリジナルのカップに入った蝋燭があったことです。1つ75セントくらいだった。もしできることならば、お土産にしたかった。)

教会の門のところには小さな売店があり、そこではここの教会オリジナルのステッカーや絵葉書、蝋燭、またメダイやロザリオ等が売られていました。巡礼団が帰ると、すぐに店は閉まってしまった。

12時の教会の鐘が響き、私たちは教会を後にし、となり街のホイリゲで昼食を食べることになりました。
ホイリゲは車で10分くらいのところにあり、入り口には色とりどりの草花で飾られており、オーストリアの初夏を味わうことができました。ホイリゲでは、出来たての今年の新酒を味わい、また名物の豚肉料理に舌鼓をうち、大人も子供も共に楽しくテーブルを囲み、感謝の内に主に与えられた食卓の一時を楽しみました。 M.O



<<ロレットの歴史>>

巡礼地ロレットはオーストリア、ブルゲンランド州のライタ山岳地帯の北側でアイゼンシュタットから13Km、ウィーンからは南38Kmに位置する。

この地の歴史は、巡礼教会の歴史と深く関わりがあり、以下簡単にご紹介することとする。

1644年、ハンス・ルドルフ・フォン・シュトッツィンゲン男爵がイタリアのロレト(Loreto) に巡礼をした。そこには、古い言い伝えで、天使が聖地ナザレからダルマチア(現クロアチア、スピリットの北部)を経由して、今のイタリアへ運んできたとされる「聖家族の家」があったのである。そこで、シュトッツィンゲン男爵は、その聖像の複製を故郷へ持ち帰った。

男爵は始め聖像をサイベルスドルフにある自分の城に置いていたが、その年のうちには現在のロレットに移された。ここには1529年の昔、トルコ軍によって破壊された聖堂があったが、イタリアから運び込まれた聖像を安置する為、「聖家族の家」と同じように再建された。記録によるとこの運搬に約4千人もの人々が携わったと伝えられている。

1645年には小聖堂の向かいに最初の修道院が建てられ、新しい巡礼地を任されたセルヴィーテン修道会の司祭達が住んだ。

1649年、ロレットが属するホルンシュタインの領域支配はハンガリー下に置かれ、フランツ・フォン・ナダスディが新しい領主になった。この若き伯爵は難病を煩い、もし回復したらここに教会を建てようと誓いを立てた。1651年建築が始まった。つまり、伯爵は聖母マリアが健康を取り戻せるよう取りなしてくれたと確信し、立てた誓いを果たしたのである。同時期に、新しい修道院の建設も着工された。その際、ロレットの小聖堂は移されることとなり、教会に隣接する数メートル後ろの十字架の道行きのある方に移転させた。1659年7月2日、新しい教会の聖別式が行われ、約2万人が参列した。

1683年、教会と修道院は再び破壊されてしまった。トルコ軍がウィーン進攻の途上この小さな巡礼地で略奪をはかり、その際、聖像はトルコ人の手に渡り、しばらくの間各地を転々とするはめに陥った。ウィーン解放の後は、ポーランド王ヤン・ソビエスキーがトルコ軍側の陣営にて聖像を見つけ、ポーランドへと持ち帰り、その数年後やっと聖像は生まれ故郷へと送り返されたのである。ここで一つ付け加えておかなければならないのだが、ポーランド王ヤン・ソビエスキーは、決戦を前にして私達の愛するロレットの聖マリアに祈っていたと言うことである。また、その場面はローマのバチカン美術館にあるフレスコ画において見ることが出来る。

1709年、ロレットはパウル・エスターハージィー侯の支配下に入った。侯爵は、人々の信仰生活を多いに促し、ロレットの地に再び教会や修道院を建てるためにも援助を惜しまなかった。ちょうどこの時期は、教会がバロック様式へと改修していった頃でもある。ロレットは続く18世紀の数十年の間に渡り全盛期を迎え、当時のロレットへの巡礼者数はマリアツェルへの巡礼者数にもひけをとらなかった。

1787年にはロレットも皇帝ヨゼフ二世による修道院解散令の対象となってしまった。巡礼所は完全には取り壊されなかったが、その使用はかなり制限された。その後の200年間、建物は様々な使用目的を持って使われ、たとえば羊毛の保管場所になったり、ナポレオン戦争と第一次世界大戦の頃には兵士病棟にもなった。20世紀初め、学校兄弟会によって教育困難な子どもたちの施設になった。

修道院解散後は、教会は教区司祭に任されたが(1787年から1926年と1954年から1964年)、1926年から1953年の短期間にはセルヴィーテン修道会がロレットに戻って来た。

1964年、この巡礼教会は小教区とおとめマリアのオブレート会の修道院にゆだねられた。オブレート会は、1826年にイタリアのピエモント州にあるピネロロのピオ・ブルーノー・ランテーリによって創られた修道会で、その主な使命は、黙想会を開き、小教区での宣教に従事することである。

1997年教会は「ロレットの汚れなき御宿り」と命名され、「小バジリカ」に昇格した。これは、教皇が重要な意味を持つ教会にあたえる特別な称号である。

巡礼者数はこの半世紀で再び増え続けている。一番大きな巡礼日は、8月15日の「聖母マリア被昇天」の祝日で、1万5千人から2万人がロレットに集まる。その他の日で特に巡礼者が多いのは、9月8日の「聖母マリアのお誕生日」とブルゲンランド在住のクロアチア人の巡礼日とされる9月第3日曜日の「クロアチアの日曜日」である。巡礼者の多くが今日もなお徒歩でロレットに巡礼に来る。